『MOTHER 3』の開発が中止になったことについての糸井重里・岩田聡・宮本茂の座談会
そして、徐々に忘れ去られていった2005年の秋、こんな話があった。
「発売のめどが立った」と糸井氏が『MOTHER3(仮題)』について報告
ってことで、スーファミ世代なら待望モノの、プレステ世代にとってはどうでもいいニュース。マザー3の発売が現実的なものになりそうだ、という話。
「エンディングまで泣くんじゃない」
のキャッチコピーや、木村拓哉を起用した『マザー2』のCMなど、話題はいろいろあったタイトルで、事実思い出の作品として記憶している人も多いだろう。
おいらも、確かにプレイした記憶があるのだが、正直言って泣くというほどでもなく、2に関してはストーリーすら完全に忘れてしまった。
ってことで、先にリバイバルされたGBA版『マザー1+2』をプレイしてみたのだが、正直言って感想はあまり変わってない。
よくできたストーリーだと思うし、映画『スタンド・バイ・ミー』と同じように等身大のボクが世界を冒険して回る感じは、とてもうまく演出されているので全体的には楽しめた。ただ、1に関してはストーリーに説明不十分なところがあって、ピンポイントでぐっとくるシーンはあったものの、エンディングを迎えた時には「あ~終わった終わった」という感情以上のものが沸いてこなかった。
マザー2については、これまた楽しい要素いっぱいでゲームとしては良いものだったんだけど、唯一気に入らない点があって。
旅の途中途中でいきなり空から変なカメラマンが降りてきて、勝手に記念写真を撮って帰っていくというのがあるのだが。
エンディングでその記念写真をフラッシュバックで見ることができるので、そこで感動を盛り上げようという演出だったんだろう。
おいらは、自分が冒険している世界が単なる箱庭で、誰かに監視されている(旅を演出されている)という気がして、ものすごく嫌いだった。
どこかで誰かがこの冒険を仕組んでいて、おいらはその仕掛けに次々とハマってるだけなんじゃないか、という気にすらさせられた。
おいらがゲームに要望することはただひとつ。
素 敵 に 騙 し て 。
これだけだ。
特にロールプレイングというジャンルであれば、結局は用意されたストーリーをなぞっていくことに違いはないのだが、それをあくまで自分が冒険を成し遂げたという感情を持たせるように演出するセンスが求められる。
その点で、マザー2がなんでこんな演出を仕様に盛り込んだのかまったく理解できない。
どこかで糸井重里が語っているのかも知れないが、そもそもその理由を調べたいという気すら起こらずに、数多のクリアしたゲームの1本として記憶の底に追いやっていたのがおいら的マザー2の感想だ。
エンディングで、要所要所のシーンをフラッシュバックするというアイディアはすごく好きだし、むしろそれがあったほうがいいと思う。
要は、見せ方でしょ。
例えば、どこかの町を訪れて発生したイベントをクリアした際に関係者で記念撮影でも撮ろうか、みたいな演出とか、入ったお店の監視カメラの映像みたいな見せ方、それこそたくさんの人と出会って冒険を終わらせたのだから、そうした人々からの視点で記念撮影みたいな演出を入れたほうが、むしろ自分の記憶と人の出会いが繋がってより深い感動を与えることが出来たんじゃなかろうか?
冒険の思い出をエンディングでフラッシュバックさせるのであれば、ストーリーの中にギリギリわかる程度の伏線を張っておいて、最後にあっと言わせて欲しかった。
もちろん糸井重里がこんなことを理解できない人ではないはずだが、とにかくおいら的に疑問が残る演出だった。
さて、世間的にファンも多いこのシリーズ。
しかも、一度開発を中止すると発表されて、まさかの復活。
紆余曲折を経てまた生み出される新たな冒険の世界を、今度こそおいらは存分に楽しみたい。
発売までまだしばらく時間があるが、今までそうしてきたように敢えて事前に情報収集は行わないようにしようと思う。
先入観のない目でストーリーを楽しみ、そして感想を述べてみたい。
エンディングまで辿り着ける程度の難易度であることを切に願う。
そんなにゲームに集中する時間は取れないのよ、ホント。
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