
嫌な思い出というのは忘れてしまった方がいい。
ただ、そうは言っても忘れちゃいけないこともある。
その両方のバランスを取りながら、毎年3月10日は自分が生きていることを再確認する日になっていた。
しかし、さすがに年月が経つとそれも途切れがちになり、2011年の3月11日の事があってから、自分の中ですっかりそのことを忘れてしまっていた。
で、久しぶりに思い出した。
今日で、あの日からちょうど20年経ったことを。
当BLOGはなんだかんだで(旧サイトを含めて)11年目に突入したが、初期のエントリーでこんなことを書いていた。
5年前の3月10日に15周年だということを書いてからその後が途絶えていたが、いい記念なのでその続きを書いてみることにする。
リハビリで約1時間ほど歩行練習をする以外は、入院中の日常というのは変化の無い、あまり楽しいものとは言えなかった。
そこでやっていたのが、病院の窓から目の前の幹線道路を走るクルマの車種当てごっこだった。
自動車の事故に遭いながら、クルマへの興味は失われておらず、むしろ退院したらクルマが欲しいな、などと思うようになっており、差し入れで自動車雑誌を持ってきてもらっては新車のチェックに余念がなかった。
この車種当てごっこはクルマの知識を身につけるには非常に役に立った。
当時はそれほどメーカーや車種に詳しかったわけではないのだが、猛烈なヒマを持て余していたため日を追うごとに的中率はアップしていった。
最初はトヨタ車とホンダ車だけ当てられたのが、一週間後には乗用車の大半は瞬時に見分けがつくようになり、それが軽自動車まで広がり、挙句に商用車までだいたい見分けがつくようになっていた。
こうしたことで各メーカーの車種のデザインの違いや走り方、載ってるドライバーのタイプまで、その後のクルマに対する基礎教養をここで身に付けたとも言える。
そんな感じで8月を過ぎた頃、あとは自宅療養でもいいだろう、ということで退院することになった。
3月10日の事故から約半年、ようやく自宅へ帰ることができると聞いて、素直にうれしかった。
事故によって右足の痺れは残ったままで、松葉杖を突いての退院となったが、まず最初にやったのは自分で歩いて買い物に行くことだった。
とは言っても電車を使って自由に動けるほどではなかったため、友人の軽自動車に乗せてもらって秋葉原に行っては買い物をしまくるという、今までの鬱憤を晴らすような消費行動に走った。
1995年というのはいろんなことがあった年だが、秋にWindows95の発売を控えており、それに向けて自作PCをどのようなパーツで組み立てるかという自作ブームが非常に熱い時期だったこともあり、イテテテとかいいながら秋葉原の雑居ビルの階段を上り下りしてパーツを探し歩いたのがとても楽しかったという記憶がある。
その後1ヶ月ほど自宅療養をしてから職場に復帰したが、その時は営業所が多摩センターから新横浜に変わっていた。
片道2時間半から片道1時間ちょっとに短縮され、いろんな意味で救われた気がした。
会社からは一応労災に相当する(=労災ではない)という変な扱いで、なんだか給料を減らされたりとか微妙に納得のいかない扱いにはなったが、とりあえずクビにならずに仕事に復帰できたことは単純にうれしかった。
結局入院から会社復帰まで半年を要し、その頃には世の中Windows95発売を前に大忙しの状況だった。
事故の状況を20年後の今になって振り返ると割と背筋が寒くなるのだが、当時は若かったこと、そして世の中が面白かったこともあって、とにかく動けるようになって遊びに行きたい一心だった。
結局足の痺れは20年経った今でも残ってはいるものの、一通りの運動をするのに支障が出るほどではない。
お腹には緊急開腹手術で切り開いた傷痕が長くクッキリ残っている。
肝心の生殖機能については、退院後に精液検査をやったところ問題はない、ということだったのでこれには一安心したのだった。
この時、「将来的に切れた尿道の傷跡の影響が出るかもしれない」とは言われたものの、あまり真剣に考えていなかったのだが、まさかそのずっと後に生殖機能の問題で不妊治療に挑む羽目になるとは思ってもみなかった。(不妊治療との因果関係は不明)
一通り社会復帰をしたとはいっても、入院中のさまざまな費用や通院の自己負担など経済的には大きな打撃があった。
事故を起こした相手は裁判によって実刑判決を受けて服役したらしいが、入院時に一度だけ見舞いに来た後はまったく顔を合わせていない。
相手の保険会社が誠意を持って対応するといって提示ししてきた金額を親父に見せたところ、あまりにふざけてるということで弁護士に立ってもらって正式な裁判をすることになった。
裁判についてはすべて弁護士にお任せして、こちらはその結果だけを待つことになった。
示談金は結局提示の3倍近くになったものの、将来的な不安も完全に解消されたわけではなく、両親の心労や見舞いに費やした時間や移動のリソースを考えると、とても割のいい額ではなかった。
保険に入っていようがなんだろうが、結局のところ事故に遭って得することなんて一つもない。
だからこそ、被害者にも、そして加害者側にもなってはいけないと、強く思う次第であります。
さて、今年はいろんな転機になった年だし、あまり過去を振り返っても仕方が無いので、この話はぼちぼちこれでおしまいにしますかね。
自分の中でもある程度踏ん切りもついたので。
…人生において2回は死にそうな目に遭うという話がありますが、この時1回、おととしの白血病で2回ということで、もうこれ以上ないと考えてよろしいですかね?
この記事へのコメント
パルタ7
こりゃまた、凄い事故だったようですね。昔の事とは言え、さぞかし大変だったろうと、同情申し上げます。我々ドライバーは絶対に事故を起こしちゃぁいけませんね。気が引き締まる思いがします。