プジョーの社長、セガを語る(2)


前回の続き。


現プジョーシトロエンジャポンの社長である上野国久氏が、自身のキャリアを振り返りる自伝的な著書を出した。


『ホンダ、フォルクスワーゲン プジョーそしてシトロエン
3つの国の企業で働いてわかったこと』 上野 国久


興味本位で読んでみると、そこには意外なキャリアが語られていた。

ホンダからVWに移るまでの間に、世界的に有名なゲームメーカーだったセガ・エンタープライゼスに5年間在籍していたというのだ。

しかもそれが、いわゆるセガの絶頂から力尽きて倒れる原因となった一番コアな期間であったことが、当方の興味を掻き立てることになった。

そのキャリアについて、読み進めてみよう。



上野氏はホンダで順調にキャリアを積み上げ、2年間のフランス・ホンダでの経験を経て栃木の営業所に勤務していた。

そこに元フランス・ホンダの社長であり、入交昭一郎氏についていく形でセガへ移った毛塚敏郎氏から声が掛かったそうだ。

“入交さんに私が初めて会ったのは、入交さんがホンダを去ってから2年後の1995年、平成7年7月7日のことで、フランス・ホンダの社長であり、元上司であった毛塚さんが入交さんに誘われてホンダを辞めてセガに転職をし、その毛塚さんから一緒に仕事をしないかと誘われてのことだった。”
“毛塚さんは

「イリさんの為なら俺は爆弾を抱えたままどこへでも突っ込んでいくと」

と言って入交さんを敬愛していたが、入交さんも、ホンダの数ある幹部社員のなかから毛塚さんを選んでセガに誘ったのであった。

「何故毛塚さんなのですか?」

と私が尋ねると、入交さんは笑って、

「毛塚君は普通の人とは違うからね。セガでの仕事は、普通では駄目なんだよ」

と言った。

「本人を前にしてそういうことをよく質問するなぁ、まったく」

と、毛塚さんは私に言いながらも嬉しそうに笑って、このとき私はふたりの間にある、絶対的な信頼関係を垣間見たような気がした。そうしてこのふたりと一緒に仕事をしたいという気持ちがこみ上げてくるのを抑えきれなくなっていた。”
(改行調整と強調表示は筆者)

この人と一緒に働きたい!という衝動に駆られることは確かにある。

当方もブラブラしていた時に以前の会社の先輩からアスキーを紹介され、面接でお会いした人物は、この業界におけるレジェンドのような人だったが、何より話をしていてその熱意に引き込まれ、この人と一緒に仕事をしたいと思ったのがアスキーに入った理由でもあったから。


こうして1995年にホンダからセガへと転身した上野氏だが、セガ在籍時代を

『仕事の道場だったセガ』

と表現している。

上野氏の略歴紹介においても、セガ在籍を示したものは見たことがなく、上野氏にとってセガでのキャリアはあまり誇らしいものとは思っていないフシが垣間見える。

その理由がこれから語られることになる。


“私が入社した頃のセガには、何か得体の知れない緊張感と高揚感があった。

セガを世界的企業へと躍進成長させたのは中山隼雄社長で、目覚ましい実績をあげた企業家としてその天才的な手腕にも私は興味をもってセガで働き始めたのだが、中山社長に実際に接して、そうした興味本位の好奇心などすぐさま吹き飛んでしまった。中山さんは徹底した実力主義と成果主義で、幹部社員の仕事に少しでも隙があろうものなら徹底的に追及し、失敗には情け容赦がなかった。”

セガの中山隼雄社長がワンマンで、人心のコントロールがあまり上手くなかったのは広く知られるところだが、それでもアーケード開発部隊の高い技術力とブランド力でなんとか戦線を維持していたのが1995年頃のセガの姿だ。

家庭用ゲーム機戦争においては、メガドライブの海外での成功、そして次世代機となるセガサターンを1994年末に44,800円という価格で発売している。

ライバルのプレイステーションがそれを下回る39,800円で発売したことから、対抗策として1995年には5000円のキャッシュバックキャンペーンを行い実質的に価格を合わせてきたことで、両者はガチンコのタイトル勝負となった。

セガサターンは1995年末に累計出荷台数200万台を達成している。

上野氏はまさにこのタイミングでセガに入社し、副社長であった入交氏の下で販売の現場を取り仕切ることになった。


“セガは中山社長による典型的なワンマン、オーナー経営であり社長は絶対的な存在であったけれども、事業運営と水深はむしろ現場主導型で、それぞれの現場責任者からの積極的な提案に対して社長が精密に確認をして決裁を与える、その駆け引きにも似た意思決定の過程には、ときに鬼気迫るものさえあった。”
“副社長である入交さんの指示を受けて仕事はするものの、それが会社にって重要な案件となれば決裁を下すのは社長の中山さんであった。この事業推進と意思決定の捻じれは、セガの大株主である大川功会長が自ら経営に関わるようになってさらに複雑なものとなる。”

1998年2月に中山社長が退き入江氏が社長に就任するも、経営の意思決定は大川会長が下すようになった。

入交氏に対する尊敬の念でセガに入社した上野氏は、どちらかというと中山氏に対してはあまり良い感情をもっておらず、大川会長が主導権を握ることをひそかに期待していたが、後にそれが甘い考えであったと振り返る。


この辺りのゴタゴタは、すでにゲーム業界よりは経済界のマターになっており、日経や各種ビジネス誌にセガに関するどちらかというとネガティブな記事が目立つようになった。


上野氏はセガサターン、そして1998年に後継となるドリームキャストにおいてマーケティング統括責任者として、「ブランド戦略」、「価格戦略」、「事業計画」、「予算管理」、「ソフトコンテンツ評価」という事業の中核部分を担う事になる。

40名ほどいた部署では当時のセガの抜群の知名度を背景にに皆意欲的で、優秀だった。

幹部社員の大半は中途入社であり、新卒採用においても有名大学の卒業者が目立っていた。

一方で離職率も高く、辞める社員は屈託なく辞めていく光景を目にし、転職に対するイメージを変えることにもなったそうだ。


そして時代は背水の陣を敷いてセガ最大のチャレンジとなるドリームキャストの発売へと向かっていく。

次回その(3)つづく) 

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