かつて、経営母体が日商岩井系列だった頃のプジョー世田谷店は千歳船橋の近く(東京都世田谷区桜丘4-24-16)で十数年運営されてきた。
当方のプジョーとの付き合いは2003年に307swを購入してからなので、それ以前の事は詳しくは知らないので知ってる範囲での記憶から世田谷店について語ってみる。
運営母体が日商岩井からプジョー・ジャポンが買い取る形で100%子会社化し、新たにプジョー東京株式会社として生まれ変わったのは2004年の話だ。
この時点で直営店として機能していたのは世田谷、目黒、大田の3店舗だった。
この直営店戦略を手本として、全国のプジョーディーラーにおいて均質なサービス(店によってサービスレベルのばらつきをなくす)を目指すという戦略は、店舗の無個性化を招く恐れもあったが、プジョーのブランドイメージを向上させるためにはそれなりに意味があるものだと思っていた。
206、307の成功の勢いを駆って、プジョー・ジャポンがいわゆる“プレミアム戦略”を取り始めてからなんとなく変な感じになっていったのは多くの人が感じていた通りだが、プジョー世田谷店の移転計画はある意味その象徴のような出来事でもあった。
プジョーの旗艦店として富裕層の多い田園調布エリアにショウルームを構えることは、プジョーというブランドのプレミアム化をアピールするには絶好の場所であるという考えがあったようだ。
当時のJAIA(日本自動車輸入組合)のWEBでも移転してのショウルーム開設の狙いが語られている。
元々がジャガーディーラーとして運営されていた場所だったので、確かに立地面では悪くはなかった。
しかし、地下の駐車場へ入るには天井が狭く、背高なクルマの入庫ができないという根本的な問題も抱えている物件ではあった。
こうして2008年9月1日からプジョー世田谷は尾山台に移転して『プジョー世田谷ショウルーム』として営業を開始した。
実は、整備工場が併設されていないことで起こりえる問題については当BLOGでも世田谷ショウルームがオープンした時点で指摘していた。
上記のエントリーの繰り返しになるが、実は世田谷ショウルームのオープンに関してはひとつの誤算があった。
整備工場は別の場所になるという路線は変わらなかったものの、当初は世田谷ショウルーム、目黒、大田の各店からアクセスの良い、大規模な整備拠点も一緒に開設する方針で動いていたそうだ。
販売が今後も順調に伸びると、ディーラー併設の整備工場だけでは対応しきれなくなるため、整備拠点を設けて効率的に整備を回していくという方針だ。
これは他のブランドでもよく取る手法だ。
現に、プジョー東京が整備拠点に目を付けていた土地をアウディに持ってかれた(プジョーの資金が足りなかった?)らしく、整備拠点新設の話は流れ、世田谷ショウルームの移転オープンだけが実行されたということらしい。
物件を調べてみたら、どうやら現在の『Audiサービスセンター南東京』のことらしい。
確かにこの場所であれば、3店舗からのアクセスも良かったのにねぇ…
とはいえ、旧プジョー世田谷を移転するとしたら整備工場は別に用意しなければならない。
その流れで代わりに設立されたのが経堂駅から徒歩10分ほどの場所にある、現在の『世田谷サービスポイント』ということだ。
世田谷サービスポイントと世田谷ショウルームは7kmほど離れており、整備のついでにショウルームで新車を見るといったことが実質的に出来なくなったことで客の分断を生んでしまった。
しかも、いい感じに旧世田谷、目黒、大田の3店舗で商圏をカバーしていたところが、世田谷ショウルームがオープンしたことで特に目黒とおもいっきり商圏がバッティングすることになった。
実際はこんなに簡単に商圏を設定するわけではないが、少なくとも物理的な距離で目黒と世田谷ショウルームはバッティングしていると言わざるを得ない。
しかし、環八通りを走って尾山台近辺を通ると輸入車ディーラーがいくつもあり、その中にプジョーディーラーがある光景というのは、それなりにオーナー心をくすぐるものであったのは事実だ。
2008年9月の世田谷ショウルームのオープンに先立つ4月に、インポーターであるプジョージャポンは、同グループのシトロエンと国内業務の効率化を進めるために吸収して新たに「プジョー・シトロエン・ジャポン」となった。
最盛期の2003年にはプジョーの年間販売が15330台を超えていたものの、その後販売台数が減っていき、シトロエンもなかなか台数が伸びない状況にあって、国内業務の効率化が必要であったという事情はわかる。
しかし一方で「高級(プレミアム)路線への移行」のために世田谷ショウルームのような大規模投資を行っていた。
過去の戦略について後からとやかく言うことは容易いが、とにかくいろんな面が裏目に出た。
商品力の中途半端さに加えてリーマンショックによる売り上げの激減という悲劇が、世田谷ショウルームオープン後にプジョーに襲いかかった。
プジョーブランドとして最盛期の2003年には年間15330台も売っていたのが、2009年には4365台と全盛期の30%弱まで販売が落ち込んでしまったのだからたまったものではない。全国のプジョーディーラーから悲鳴が上がりまくった。
もちろん世田谷ショウルームも投資に見合った台数を販売出来ずに苦労することとなった。
リーマンショック以降の日本の自動車市場はエコカーパニックとも呼べる状況となった。
猫も杓子もハイブリッド、減税・免税が無ければ検討のテーブルにも載せてもらえない。
日本の燃費基準を満たすことが難しく、ダウンサイジングターボの潮流も始まったばかりで輸入車メーカーにとっては厳しい時代が訪れた。
クルマの商品力が競合に劣り、割高感のある価格も敬遠され、メディアでもあまり露出する機会が減ったなどの影響は、ディーラーの来客数に如実に表れる。
たまに世田谷ショウルームに遊びに行っても商談する客の姿は少なく、また新型車もあまり発売されない状況で、せっかくの立地のメリットを活かしきれていない感じがした。
そして2009年に大きな騒動が起こる。
いわゆる「チューガイ事件」だ。
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