あの日。(2)

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あの日の出来事の続きを書こう、書こうと思っていたのに、もう1年経ってしまった。
だんだん記憶は薄れつつある。
それはそれで結構なことだ。
痛みの記憶なんてものは、無い方がいいんだから。

忘れたのなら放っておけばいいのだが、なんとなくあの事故現場を訪ねてみることにした。
多摩センターから町田へ向かういつものルート。
ゆるい下り坂を降りたところが信号になっており、赤信号で停止したところまでは明確に覚えている。
雨の降る夜だったから、ここがこういう交差点になっているというのは改めて見に来て初めて理解したような気がする。

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おいらのクルマは、写真奥の停止位置から弾き飛ばされて、一回転して運転席側から(電柱ではなく)信号柱に衝突したことになるわけだ。
距離にすると20mぐらい吹っ飛ばされたことになる。

事故車の写真を見ると、ホントに80km/hで突っ込まれたのか?という気もする。
衝突安全ボディとかいう前のクルマではあるが、これだけ見事に信号柱の痕が残っているとすると、もっとスピードは出ていたかもしれない。
緩やかな下り坂でもあるわけだし。

何が起こったかわからず、痛みをこらえながら必死にドアロックを解除して外に出ようとしたが、まったく運転席側のドアが開かない。
隣の先輩を先に下ろして、後から這い出すように外に出たとき、濡れた地面に膝から崩れ落ちたことも思い出した。
久しぶりの現場に当時の記憶が断片的に蘇ってきて、足がガクガクしてきた。

なんとなく居辛くなったので、おいらの運ばれた病院に行ってみることにした。
確かに、現場からクルマで5分も走れば到着する場所に、日本医大多摩永山病院はあった。
京王線永山駅から直結する形でアクセスのいい病院だ。

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救急車で運ばれ、すぐにこの病院の緊急治療室に入り、腕のいい先生の緊急措置のおかげで、おいらはこうしてほぼ問題なく社会復帰ができている。
前回も書いたが、不幸中の幸いだった気がする。

入院してから3週間はまったくベッドから身体が動かせなかった。
尿道にはカテーテルが入れられ、尿管がうまく繋がるまで、積極的におしっこをするように、ということで一日2リットル以上の飲料水を飲まなければならなかった。
また、床擦れしてはいけないからと、ちょっと動くだけでも激痛が走るというのに、一日に2回ほど看護婦さんに強制的に身体の向きを変えられたりした。
でも、キレイな看護婦さんだったから許す。っていうか、それ以外のときの優しさに淡い恋心を抱いたのは内緒の話だ。

4月を目前に、桜がキレイに咲いているからと、ベッドから車椅子に乗っていいという許可が出た。
生まれて初めて座る車椅子。
そして、ここ数週間寝たきりだったので、起きた姿勢でいると意識が朦朧としてくる。
それでもせっかくだからと休憩室まで行き、満開の桜を眺めて、自分が生きていることを実感していたのだった。
そして数分後…意識が遠のき気を失ってましたとさ。

入院してから1ヶ月が経過し、その間友人や会社の先輩が多数見舞いに来てくれた。
ヒマだったことから、クルマ雑誌とYMOのCDをファーストからラストまで順番に買ってきてもらったりもした。
ここでおいらのクルマ好き&YMO好きが始まったのでしたとさ。

退院するまで、あと数ヶ月を要すことになるのだが、その続きはまた別の機会に。

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