スペースハリアーに関するあれこれ



できればフルサイズにしてご覧ください。
そんなわけで、1985年にアーケードの体感ゲームとして大ヒットしたセガのスペースハリアー。
初めてその姿を目にしたのは、高校受験を控えた模擬試験の帰り道、元住吉のゲームセンターでなんだかすげー綺麗な画面でぐりんぐりんと動くその異様な姿に、文字通り目が釘付けになって3時間ぐらいずっと後ろから見ていたという衝撃的な出会いだった。

スペースハリアーは、まさしくテレビゲームの新しい時代の到来を告げたエポックメイキングなゲームだった。

詳細についてはWikipediaでご確認されたし。

当時テレビゲームにおいてはアーケードゲームが技術上の頂点であったのに対し家庭用ゲーム機やPCは低スペックのため、その移植の際にあらゆる工夫が凝らされた。

初めて見る人にとってはなんのことやらわからないだろうが、エッセンスをどの程度残して、かつゲームとして成立させるかという点において、各機種の移植版のアプローチを検証してみることは、ゲームの開発史を振り返る上で重要なことではないかと思う次第なり。

四の五の言わずに笑いながら見ればいいんだが、当時セガマークIII(動画中ではMASTER SYSTEM版)が発売されたとき、高校1年だったおいらは、小遣いを握り締め、横浜のヨドバシカメラに文字通り走っていった。

今見ると移植のデキは決して良くはないが、それでもスペースハリアーのエッセンスを8bitで再現力の劣るゲーム機にうまく移植できている。
足りない部分は想像力をフル活用して、アーケード版と同等に楽しむことに没頭していた。
そのぐらい、家庭でスペースハリアーがプレイできるということは、ゲーム大好き少年達の間では価値のあることだったのだ。

そして、スペースハリアーの移植版に関しては妙な展開を迎える。
タイニーゼビウス同様に、エッセンスだけをうまく取り入れて移植されたPC-6001mkII版、それと対極的にアーケード版と同等の処理能力を誇り、完全移植を目指して制作されたX68000版(移植度は高いものの地上が市松模様で無いなど簡略化されている)が発売され、ここでひとつの頂点を迎えた。

 
▲PC-6001mkII版


▲X68000版

その後新しいゲーム機が出るたびに移植版が発売される息の長いタイトルになった。

そして、スペースハリアーを移植することがひとつのネタと化した事件が起こる。
古籏一浩氏が「MZ-700 に不可能はない」のスローガンの下、MZ-700という8bitPC黎明期のマシン向けにスペースハリアーを移植、そのプログラムをOh!X誌に掲載するというエクストリームなチャレンジをやってのけた。



エッセンスだけを抜き出して移植されたスペースハリアーとしては、上記のとおりPC-6001mkII版があったわけだが、MZ-700はそれよりもかなり古い機種であり、グラフィック機能は粗いドットを組み合わせる初歩的な表現しかできないPCだった。

そんなMZ-700版はセガの許諾を得ての掲載され公式な移植としてカウントされている。
エッセンスを究極まで煮詰めると、こういうことになるというある意味伝説的なプログラムとも言える。しかも、ステージごとにロードをするのではなく、限られたメモリに収める形でプログラムされており、プログラム的には非常に高度なものであることも驚きだ。

こうしてみると、アーケード版のスペースハリアーをプレイしてその思い入れが強ければ強いほど、この粗いドットで表現されたMZ-700版も、ちゃんとスペースハリアーしていると感じられる。それこそ、愛おしいぐらいにスペースハリアーなのだ。

今でこそテクニカルライターとしての活躍が有名な古籏一浩氏だが、こんな熱いプログラムを書いていたこともあるんだよ、ということでスペースハリアーを語る上では忘れてはならないエピソードのひとつだ。


おいらにとってスペースハリアーは人生を変えたゲームとして生涯ベスト3に入る(1位はゼビウス、3位がグラディウス)ゲームだが、なんでこんな動画を急に思い出したかというと、Nintendo3DS用に移植されたからだ。

セガ3D復刻プロジェクト 『3D スペースハリアー』

もちろん最新のゲーム機であるNintendo3DSなので、移植度からすればまったく問題ないレベルになっている。
それに加えて3Dによる立体視演出、そしていくつかマニアを唸らせる仕掛けを入れて、600円という価格でリリースされた。
おいらにとって思い出深いゲームでもあるので買ってみたが、これが意外と良くできている。

今でこそ3D表現はポリゴンを使ってよりあらゆる角度からリアルに表現できるようになったが、技術力が乏しかった28年前のゲームでも、それなりに遊べることを再認識させられる。

この対比は上記した例えのように、3Dのエッセンスを抜き出して当時の技術でゲームとして成立させたということになる。
つまり、ゲームっていうのは表現の仕方でどうにでも楽しさを演出することができるというわけだ。

そんなことを思い返して、ついつい動画を見ながら思い返した正月休みの最終日の夜だったのでしたとさ。



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