そんなわけで、ハドソンに関する思い出を20分で全力で語ってみる。
爆弾男と書かれたカセットケースだけの簡易梱包のゲームソフトをマイコンショップの店頭で見たのが始まり。
当時のソフト供給手段はCD-ROMでもなく、フロッピーディスクでもなく、カセットテープだった。
今みたいなきちんとしたパッケージではなく、カセットケースに簡単なジャケットイラストが印刷されたシンプルなパッケージで、2000円から4000円ぐらいの間の作品が多かった。
初めてPCを買ってもらう時、ハドソンのソフトが一番楽しめるという理由でPC-8001ではなくFM-7を選んだのは親には言えない話。
当時ハドソンは任天堂のマリオブラザーズの8bit向け移植版を出しており、それに付随してオリジナルのマリオを使った作品がいくつか出ていた。
その他、(当時としては)技術力の高いソフトを量産するソフトハウスとして認知され、「野球狂」「麻雀狂」「花札狂」といったシリーズは長く遊ばせてもらった。
ハドソンといえば「デゼニランド」と「サラダの国のトマト姫」の大ヒットが有名。そして大幅にリリースが遅れて不発に終った「デゼニワールド」のADV3部作が第一期の頂点だったと言える。
“ATTACH CROSS”“POLISH PILLAR”というフレーズを聞いて遠い目をする奴とはだいたい友達。
フロッピーディスクドライブがまだ高価で、ドライブとIFユニットで20万円ぐらいしていた。
当然中学生に買えるものではなく、データレコーダーからカセットテープ経由でプログラムを10分から20分近くロードするという苦行に耐えなければならなかったが、それを待てるぐらいPC(っつうかゲーム)は魅力的で、中学生というのは時間を持て余していたのだった。
全盛期のおいらは、データレコーダで再生されるデータの音の頭10秒ぐらいで何のプログラムをロードしているかを当てることができた。
ハドソンのプログラムは特殊な仕組みで、非常に高音のデータ音が鳴り響くことからちょっと聞くだけですぐハドソンのプログラムであることがわかった。
ハドソンはゲーム以外にもいろんな取り組みをしており、当時しゃべるPCとして話題になっていたPC-6001mkIIと同等の機能を実現するために、Hu-Voiceというスピーチソフトを発売したことがあった。
単に指定のワードをそれっぽくしゃべるだけであったが、これだけでも未来感バリバリの体験をさせてもらった。
ハドソンはこうした取り組みから、開発環境のパッケージ化などいろいろ発展させていき、後にゲーム機やOSのコアを開発することになる。
ハドソンのADVは、画面描画が独特で、しかも(当時としては)高速であって、画面を行ったりきたりしてもあまりストレスを感じなかった。
その独特な描画方法を見れば、ハドソンブランドではなく受託で開発した作品でも一発でハドソン製だということがよくわかった。
8bitPCのADVでマイフェイバリットであるバンダイ発売の「サザンクロス」。これを作ったのもハドソンだった。
今でも「サザンクロス」をプレイできる環境が手に入るなら、1万円まで出す。それぐらいもう一度プレイしたい名作。
「デゼニワールド」がFM-7で発売されなくなったことから、徐々にハドソンが嫌いになった。
FM-7のゲームが発売されなくなるに従い、興味はファミコンへと移っていったわけだが、ここでもハドソンのソフトを好んで遊ぶようになった。
生まれつき天邪鬼な性格から、高校1年の時にファミコンブームが絶頂だったにも関わらず、ファミコン一式を高く友人に売りつけセガマークIIIへと乗り換えたため、おもしろいゲームをファミコンで連発させるハドソンは敵となった。
以降接点を持たないメーカーとなったハドソンだが、意外なことにNECのPCエンジンの技術開発に大きく関与しており、おいらがセガに加えてPCエンジンへと辿りつくと、再びハドソン製のゲームの虜となった。
PCエンジン+CD-ROM2における「Ys I&II」に代表れるハドソンの活躍は言うまでもなく、最先端のゲーム体験をさせてもらったことは未だに良い思いでとして残っている。
しかし、「天外魔境」シリーズは絵柄が好みではなくシリーズ通して1度もプレイしたことがない。
ゲーム機ではNECとの関係が深いハドソンだったが、PCの世界においてはシャープのパーソナルワークステーション「X68000」のOSに絡む部分を手がけており、ご家庭でほぼ完璧なグラディウスがプレイできるこのマシンが欲しくて仕方が無かった。
しかし50万円近くするこのPCを買うだけの財力もなく、富士通派だったおいらは大学生になったらコンピュータの勉強が必要だから、とかいってFM-TOWNSに手を出すというかなり残念な選択をしてしまい、再びハドソンは敵となった。
時は流れて大学3年ぐらいになると、やっぱりFM-TOWNSでは出来ないことがX68000では簡単にできることもあって、猛烈にX68000が欲しくなり、バイト代をすべてつぎ込んでX68000を手に入れた。
Human68KやSX-Windowといった環境で、CUIとGUIの概念を学ばせてもらったのも、当時のハドソンのシームレスなOS設計のお陰と言える。
社会人になるとハドソンがファミリー系のゲームばかりになり、ハドソン製のゲームに触れる機会が減り、PCもWindowsやMacを使うようになったため、ハドソンとの接点がほとんどなくなってしまった。
コナミ傘下に入ったことも、ハドソン離れを加速する理由になったのは紛れもない事実。
コナミがゲーム業界に与えた負の影響も、語り継いでいかなければならない重要なファクター。
00年代に入ると高橋名人がなぜか再ブレイクし、ライブにも何回か足を運んだことがある。
生で16連射でスイカを割るところを見れたのは一生の思い出。
これまたひょんなことから00年代初頭に遠藤雅伸と高橋名人の初対面という場に居合わせ、日本のゲーム作った(宣伝した)生き証人の会話に混ざれたことが一番エキサイティングな出来事だったかな。
「ゲームは一日一時間」に込められた意味が意外と深くて、色物芸人の目で見ていた高橋名人に対する考え方を180度転換させたのもこの時期だった。
ついでにハドソンに対する愛憎の歴史も、すべてを好意的に受け入れられるようになった。
しかし時は既に遅く、ハドソンがハドソンらしさを取り戻すことなく、2012年3月1日をもって法人としてのハドソンが消滅するとの話を聞き、数多のマイコン少年たちと同じく、ハドソンに対する思い出を語ってみたくなったのであった。
ブランドとしてのハドソンは残るものの、桃鉄の新作も出なくなり、創業者も高橋名人も去った今、どれだけハドソンらしさを出せるのかは未知数だ。
間違いなく日本のコンピュータの歴史と発展に寄与した会社がなくなるというのは寂しいものだが、こうして語ることでその偉大さを少しでも記録として残しておきたい。
いろいろあったが、ありがとうハドソン。
ハドソンと共に育ったおいら達が、これからのハドソンみたいな会社が出てくる環境を作っていかなきゃいかんよね。
そんな気持ちになったのでありましたとさ。
以上、ざっと20分でエントリーを書いてみた。
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