※このエントリーはかなり刺激的な表現が含まれており、しかもオチはあんまり楽しくありません。ご覧になる前に十分ご注意ください。

■1995年3月10日
あの日。
嫌な感じの雨が降っていたと記憶している。
週末だというのに、翌日には休日出勤で販売店の手伝いに行かなければならなかった。
そのため、会社の営業車で帰宅することにした。
「まったく、週末の夜だっていうのに疲れ果てて帰るだけかよ」
みたいなグチを言いながら、22:30過ぎに先輩を隣に乗せて会社を出た。
社会人1年目にして、片道2時間半もかかる多摩センターへの通勤は限界を迎えつつあった。
しかし、職場の環境に恵まれていたこともあったので、仕事が嫌いということではなかったのだが、神様が助け舟を出してくれたのかもしれない。
会社を出て10分も経たない交差点で信号待ちをしていた時、その出来事は起こった。
記憶は断片的にしか残っていない。
猛烈な全身の痛みと、隣で苦しそうに呻く先輩の声。動かせない自分の身体。
何か面白いこと言わなきゃってことで、いつもの調子で、
「先輩~、元気っすかぁ?」
とギャグにもならないような声で叫んだことだけは覚えている。
時刻は22:50ごろ。
僕らの車は、飲酒、居眠り、猛スピードというトリプルコンボのワンボックス車に、時速80km/h(警察調書より)ほどのスピードで追突された。
■何が起こったのか?
雨が降っていたこともあり、弾き飛ばされた僕らの車は、交差点に立っていた電信柱に、運転席側から激しく突っ込んだ。
付近の住民が事故の音に驚いて様子を見に駆けつけた時、
「あぁ、これは生きてないだろう」
と思ったそうだ。
警察と救急車のサイレンの音が遠くで木霊する中、僕は電信柱に食い込んだ車の運転席に挟まれていた。
何が起こったのか理解できず、なんとか外に出なきゃと身体を動かしていたことも断片的に覚えている。
助手席側から自力で外に這い出したらしい。
先輩曰く、あれほどの事故にも関わらず、外見は大きな怪我をしているようには見えなかったそうだ。
ただ、救急車が到着して、「どこか痛むところはないか?」との問いに、
「尿意がある、尿意があるんです」
を連呼していた。もっと単純に「おしっこがしたい」と言えばいいものを、何を気取ってるんだか。まだほんの少しの理性が残っていたのだろう。
僕の身体は、膀胱が破裂、尿道が切れ、右の骨盤が骨折していた。
そして、下腹部を押さえながら気を失った。
■不幸中の幸い
そのとき、病院からの電話に親父は、「酔っ払ってその辺で怪我でもしたんだろ、朝まで放っておいてくれ」と言ったそうだ。
「何言ってんですか!大至急病院に来て下さい」
との病院側の強い口調でただ事ではないとわかり、慌てて病院に駆けつけたそうだ。
検査室に向かうストレッチャーで、家族の連絡先や、何か言いたいことはあるか?という医師たちの問いかけに、僕は自宅の電話番号を告げ、そして翌日に手伝いに行くはずだった販売店の電話番号と担当者を伝え、明日行けなくなった事を伝えて欲しい、と言っていた。
明日の仕事の心配より、自分の身体を心配しろって思うのだが、やはり社会人1年生としては、仕事で迷惑をかけちゃいけないって真面目なところがあったんだろう。今はスチャラカ社員だが。
そして検査を受けている頃、親父は緊急病棟の先生から、何が起こったか説明を受けていた。
その時のメモには、
・状況がどうなっているかわからないので試験開腹をする
・膀胱内出血の原因をハッキリさせ、止血と修復の手術をする
・他にも腹膜や腸の壊死の可能性がある
といった感じで、出血の場所によっては不測の事態もありえるとの話だったそうだ。
「お袋がその場にいなくて良かった」とは、後の親父の弁。いたらひっくり返ってただろうなぁ…
僕が目を覚ましたとき、最初に目に飛び込んできたのは、集中治療室の中で身体にいっぱい管を入れられ、各種センサーを付けられた自分の姿だった。
不思議と、怖いとか悔しいという感情は沸いてこず、
「なんかステレオコンポみたいにいろんなコードが取り付けられてるねぇ」
などと他人事のように呟いていた。
ビートたけしがバイク事故を起こした時に自分の姿を客観的に眺めているもう一人の自分がいて、なんだか気ぐるみを脱いだような気がしたと話していたが、感覚的にはそれに近いものがあった。
自分の身体の状態と手術の結果の詳細はまだ教えてもらえず、とりあえず無事に手術は終了したから、ゆっくり休みなさいという先生の言葉を聞いて、再び眠りについた。
手術の結果について、先生が親父に説明してくれたメモが残っていた。
『骨盤(恥骨と坐骨)の骨折』
『膀胱破裂と尿管損傷の修復』
『将来的に泌尿器科と整形外科での継続治療が必要』
『命に別状はないが、後遺症の可能性は残っている』
尿意があると感じたのは、尿管損傷でうまくおしっこが出ないということが原因だった。
尿管というのは非常に薄い膜で形成されているそうで、そこにカテーテルをうまく通すことが出来るか、非常に難しい手術だったそうだ。
何回かのトライでうまくカテーテルが通ったため、最悪の事態を免れることが出来た。
最悪の事態とは、尿道の機能を回復することができず、人工膀胱を付けなければならない可能性があった、ということだ。
障害者として残りの人生を過ごさなければならない危険を、優秀な先生の手術でなんとか回避できたのは、まさしく奇跡としか言いようがない。
事故現場から病院まで救急車で10分も掛からない場所だったことも、ラッキーだった。
僕は、いろんな奇跡といろんな人の助けで命を繋ぎとめることができた。
それは、不幸中の幸いだったと言わざるを得ない。
この記事へのコメント
あいざー
冷静に文章にできるまでにはかなりの時間も要しただろう。
事故前に君とスキーに行く約束していたのを覚えているだろうか。
事故後に君の母親から連絡があり中止になったのだが、かなり狼狽した声であったので尋常ではないことだろうと思ってはいた。
でもあえて詳しいことは聞かなかったし、退院してからも聞くことはしなかった。
今回初めて詳細を知る。
他人にはわからない苦労や不安があったであろう。
しかしこうやって自分自身のことを書けたことは生きている証拠でもある。
そしてこの俺も…。
お互い生きていることに感謝し素直に喜ぼうではないか。
ヒデヒデ。
あれは突然の出来事だった。と記憶している。
久しぶりに君から電話と思いきや、お母上からのご連絡。
これは危篤!かとあの時は思ったなぁ。
ベットにいる君が痛々しかった。
ただ、見舞いに来た自分に冗談を言う余裕があって、以外に当人は冷静なんだなぁ
と感じたよ。
しかしながら、当人以外の方々、特にお母上は、帰りがけ、自分にお声賭け頂いた記憶がある。
本当に心配されていたんだなぁと。
あの時の事故の詳細を今回初めて知ったが、本当に今、この文章を読めてよかった。
と思うよ。
10年は本当に長かったなぁ。
また、10年後、新たな驚きの伝説を期待します。
しかしながら、当人以外に心配かけないようなことで…。
以上。