そろそろ自分の中で整理がついたのか、それとも忘れてしまいたいのか。
今日はあの日から14年を迎えた。
っていうことをすっかり忘れていた。
今では事故の痕跡を残しているのはお腹の緊急手術の痕と、右足に残った痺れぐらいのもので、実生活を送る上ではほとんど問題ないと言っていい状況だ。
(歩くのがツラいことがたまにあるが、我慢できる範囲ではある)
キズモノではあるものの、ほぼ五体満足な状況でいられることをつくづく幸せだと思う。
ってことで、その後のことを書くといいながら2年経ったが、とりあえず忘れないうちに残しておこう。
事故現場からすぐ近くの日本医大多摩永山病院で1ヶ月ほど入院していると、緊急病棟からの追い出しを食らった。
経過は順調で、あとは安静にしつつリハビリをしていくだけなので、緊急病棟の空きベッドが足りない状況では仕方がないな、ということで自宅に近い済世会神奈川病院(東神奈川)へと移送されることになった。
この際、永山病院から東神奈川まで救急車で搬送されることになったのだが、この時はもう意識もハッキリしていたし、状況を楽しむ余裕があった。
救急車というのは、患者を安全に運ぶために乗り心地は柔らかいもんだと思っていたら甘かった。
とにかくよく揺れるのだ。
こちらはストレッチャーに固定されて身動きが取れない状況で、ちょっとした段差を越えた際の衝撃が骨折している箇所に響く。
永山病院から東神奈川までは40km近い距離があり、ずっとピーポーピーポーと鳴る車内に寝かされているのはかなり苦痛だった。
そんなわけで済世会神奈川病院に到着したわけだが、なんとその日に横浜駅異臭事件が発生して、おいらが転院手続きを済ませた直後に多くの被害者が済世会病院にも搬送されてきて、病棟には1F立ち入り禁止令が出されるほどの歓迎っぷり。
これからの新たな入院生活に暗雲立ち込めたのであった。
永山病院が天国だったとしたら、済世会病院は地獄かもしれない。
少なくとも看護婦さんに関してはそうだった。
ほぼ寝たきりで寝返りがやっとという状況では、下(しも)のお世話もしてもらなければいけなかったのだが、永山病院ではキレイな看護婦さん(若い頃の岡田奈々そっくり)が嫌な顔ひとつせずに対応してくれたのに、済世会病院では小錦(誇張なし。まさに小錦)のような看護婦から簡易便器とペーパーと渡され、「自分でやってください」との冷たい仕打ち。
あまりに切なくなってしまったので、自分で車椅子に乗り込み、トイレまで行くリハビリを最優先でやるようになった。
ある意味、患者自身で何でもやれるように復帰を促すつもりだったのかもしれないが、下の関連でそういうことされるとプライド傷つくというか、早く退院してやろうという気にさせられたもんだ。
そんなわけで、長くなりそうなのでもう少しつづく。
ちなみに冒頭の写真は、事故の際にズボンのポケットに入れておいた家のカギだ。
こんなに曲がるとは、いったいどんな衝撃だったんだろうか?
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