BLOG RANKINGに参加しております。
訪問記念に押してってくらさい。⇒⇒⇒
ブログランキング・にほんブログ村へ

2015年03月30日

過去は無かったものとして、プジョーさんがtwitterを開始


す、すまない…

3月あたまにプジョージャポンとしてTwitterのアカウント取って活動を開始していたというのにまったく気が付きませんでした…

プジョーさんのアカウントとしては、かつて@Eco_Lionというアカウントを運用していたこともありましたが、とにかく運用がかなりガッカリな感じでありました。


エントリーでも書きましたよね?

「その施策がどれほどの効果を上げたのか、後できちんと検証しましょうね。」

って。

そんなわけで、どれほど検証したのかは定かではありませんが、しばらく沈黙していたプジョーのTwitterアカウントが三度目の正直として心機一転でスタートしています。

とはいえ、3週間経ってもフォロワー数が43というのはなかなかアレな感じでありますが、ちゃんとプロモーション広告出してるんでしょうか?

今のところツイートの内容を見ていると、手探りな感じでなかなかキャラクターの設定がうまくいってないようにも見受けられます。

なんだか心が折れてそうにも見えますが、とにかくめげずに発信していくしかありません。

同じPCJとしてはシトロエンのアカウントが2010年3月に開設して、フォロワー数が5758とけっこう頑張っております。

しかし、基本的には一方的な情報発信がメインとなっているため、ソーシャルメディアの使い方としてはまだまだの感があります。

それでも定期的に何か情報を発信しようとする姿勢はいいと思いますが。


シトロエンより一ヶ月遅れで開設されたルノージャポンのアカウントはフォロワー数が9818となっており、この辺りはリアルイベントとソーシャルメディアの連携がうまくいっている昨今のルノーの好調を裏付けるものと言えましょう。

facebookページもそうなんですが、告知の投稿だけのアカウントっておもしろくないんですよね。

過度に慣れあう必要もありませんが、情報発信とそれに対するレスポンスをうまくからめて効果的なプロモーションのレベルまで持っていかないと、せっかく担当者を決めてアカウントを運用する意味がありませんですよ。

得てしてこういう告知のみでおもしろくないアカウントって代行業者に委託運用してたりする場合があります。

外部に委託していると、社内の事情や製品に関する詳しいことまで把握していないためどうしても発信が当たり障りのない事務的なものになりがちです。

だから見ている方はつまらないと感じるわけです。

ですので、もし外部委託で対面だけ取り繕うとしているのでしたら、即刻止めた方がいいですよ。まったく効果ありませんから。


最近の自動車メーカーでソーシャルメディアの使い方がうまいのは、なんといってもマツダですね。

どいつもこいつも必要以上にマツダをageる風潮が気に入らないのですが、ことオーナーを自ブランドに惹きつけるための試みをきちんと続けてきた実績は評価されていいと思います。

マツダは以前から自社サービスでマツダWEBメンバーズというサイトを運営しており、その中でオーナーたちとの交流を行ってきましたが、その中でも息の長い取り組みとして「マツダ車のある風景」というアワードがありました。

オーナー達が自分の愛車と風景を写した写真を投稿し、それを読者投票で選ぶというものでしたが、それらの取り組みはfacebookとtwitterに移行して続けております。


マツダ自身のアカウントからツイートするだけでなく、マツダ車のオーナー自身もマツダ車のある風景を投稿したりして、良い関係が構築できていると言えましょう。

こうした取り組みが「Be a driver.」として新たなファンを獲得し、マツダというブランドの価値向上にも寄与していることからも、ソーシャルメディアを使うならその特性を最大限に活かすようにしなければ意味がないことは明らかです。

プジョーさんでも「Le Club Peugeot」というほとんど更新されないコミュニティサイトがありますが、こういうのはもう閉じてしまってfacebookなりtwitterなりに全面移行してしまってもいいんじゃないですかね?


そんなわけで、取り組んでいるという姿勢を内外に見せたいだけなら知ったこっちゃないですが、一応はソーシャルメディアを使ってプロモーション効果を高めたいと思うのであれば、いいお手本はたくさんあるわけですから怖がらずにちゃんとやりましょう。

シトロエンからブランドとして独立したDSに関しても公式アカウントも開設されたわけですし、ここらへんで本気出してくれませんかねぇ…?


posted by 海鮮丼太郎 at 09:50| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 車(Car&Culture) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月27日

ジェレミーのTopGear降板についてちょっと思ったこと

jeremy.jpg

自動車を扱うテレビ番組の中で、間違いなく世界No.1のおもしろさを誇る英BBCの『TopGear』において、長らく番組を引っ張ってきた司会者のジェレミー・クラークソンの解雇騒動が起こっている。

元々は番組プロデューサーに暴言を吐いて殴ったことが問題視されているというが、ファンからは100万通以上の嘆願書が戦車によって届けられたり、『スニッカーズ』のアカウントからは

「お腹が空いてた時の君は本当の君じゃないよね」

などとスニッカーズが番組あてに送られてくるなど、こんな騒動もバカな感じで盛り上がっていたりする。


とはいえそんなジェレミーがTopGearの司会を担当するようになったのは2002年からのことだ。

それ以前のTopGearの出演者たちがBBCの番組終了によってスタッフまるごと移籍してスタートした『5th Gear』という番組(日本ではDiscovery chで放映中)の知名度はそれほど高くないことからも、事実上TopGearはジェレミーが世界的なコンテンツに育てた番組と言ってもいい。

その歯に衣を着せぬ物言いと、『Powerrrrrrrrrrr!』という大出力絶対主義は、クルマに対する価値観の軸としては非常にわかりやすいキャラクターではあった。

それを補完する形で異なる価値観を呈するリチャード・“ハムスター”・ハモンドと、技術志向のジェームズ・メイを配することで切り口に幅を持たせていたわけだが。

様々なバカげたチャレンジは、まさしく自動車を使ったバラエティーショーとして唯一無二の存在であることは間違いない。

日本人にとってはこのエピソードで唸らされた者も多いだろう。

TopGear出張版 GT-Rで羽咋から鋸山へ


とはいえ、10年以上やり続けてきたことである種のマンネリ感が漂っていたのも事実だ。

また、ジェレミーもハモンドもジェームズもそれなりにいい年齢になってしまったことで、視聴者にとっての同世代感というものが希薄になってきてしまっているのも事実だろう。


世界的にクルマの変革が進む中で、『More Power!』な嗜好のジェレミーが今後番組を続けていくとなると、より過激な方向へ行くしかやり方は残されていないわけで、その意味でそろそろ潮時な感じがしないでもなかった。

そこに今回の騒動が起こって個人的にはこんなことを思った。

そんなわけで、BBCはジェレミーとの契約更新を行わないという報道が出たことで、実は降板は既定路線であって、その理由として「温かい食事が食べられなかったから」みたいなもっともバカげた理由が演出として報じられているだけなのではないかという感を強くした。

後任にはクリス・エヴァンスの名前が挙がっていたりするが、それに対する反発の声がけっこう大きいことに驚く。

確かにジェレミーの後を受けてTopGearの冠を引き継いでいくのは大変なプレッシャーだろう。

短期的には世界的なTopGear人気も低下せざるを得ない。(すなわち配信打ち切りのエリアも出るだろう)

とはいっても、ジェレミー的な価値観を持ったエンスージアストたちは、今後は空飛ぶプライベートな乗り物などに価値を見出していくだろうし、必ずしも4つのタイヤで地面を這う乗り物だけがエンスージアストたちを満足させるわけではないことは理解しておくべきだろう。

時代の変革は確実に起こっており、その変革の過渡期においては番組も新陳代謝を行いながら時代の変革を受け入れていくべき話なのではないかと思う次第也。

ジェレミーはああいうキャラを演じていつつも自身では理解しているはずだ。
彼のコラムを読んでいれば、ジェレミーが単なるエンスーではないことはよくわかる。

TopGearに未練があるのなら、それこそかつてのスタッフが『5th Gear』を立ち上げたように、ジェレミーならではの番組をまた立ち上げることだって可能だろう。

問題は、そうした番組を作るためのふんだんな予算をどこから確保するのか?ということだが…

それほどまでにBBCおよびTopGearという番組は予算の掛け方がハンパじゃなかったという話でもある。


余談だが、同番組のフォーマットをライセンスしてアメリカで制作されている『Top Gear U.S.A.』(日本ではナショナルジオグラフィックchで放映中)は死ぬほどつまらない。 


posted by 海鮮丼太郎 at 12:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思(criticism) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月23日

サイタ、サイタ。

そんなわけで、春であります。

この景色を見たいがために、激しい花粉症で鼻をズルズルさせながらも片道22kmの自転車通勤に精を出すのです。

26日に健康診断があるので、それに向けてのラストスパート的な意味合いもあるのですが。


で、この季節はもう一つのご褒美として、袴姿のお姉さんを見物できたりもするんですね。

hakama20150323.jpg


今日は東洋大学の卒業式が武道館であるそうです。



さて、3日であと−5kg。

減らせるんでしょうか?


そんなわけで、健康と風情を楽しむための自転車通勤、オススメです。


posted by 海鮮丼太郎 at 10:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(diary) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月19日

永瀬麗子 40歳。

WP_RR3D_Nagase_00_800x600.jpg

昨年こんなエントリーを書いたのですが。

永瀬麗子39歳、深見藍35歳。ということはリッジレーサー20周年。


ってことで、昨年はリッジレーサー20周年でしたので、当然その翌年はリッジレーサー21周年なわけです。

そして、イメージキャラだった永瀬麗子さんもめでたく40歳(1975年2月14日生まれ)になっていました。

最近はお見かけすることも少なくなりましたが、お元気でいらっしゃいますかね?

せっかくですので、ナムコさんは記念になにかやらないんですかね?


レースクイーンとして40歳というのはどうなんだ?という話もありますが、実はプロポーションさえ維持していればそれなりに需要はあるというのがこの界隈の不思議なところであります。

ってことで、ソニーがAIBOのサポートを終了して飼い主たちのペットロスが問題になるのと根は同じことだと思うのですが、バーチャルアイドルにあまり詳細なプロフィールを設定してしまうとそれがリアルであればあるほど虚構と現実がどんどん乖離していってしまいます。

ですので、こういうのを企画する側は賞味期限が切れた後のことまで一応想定はしておいて頂きたいものだと思う次第であります。

幸いにして当方はバーチャルアイドルとかバーチャルペットの類にあまり乗れなかったのでそれほどダメージはありませんが。


そういえば、初音ミクさんは今年で24歳ですか。
そろそろあの髪形とか、恥ずかしい感じですよねw

  
posted by 海鮮丼太郎 at 11:00| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思(criticism) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月17日

君の名は…

baby20150129.JPG

パパはね、ゲームとか映画とか、

想像力が掻き立てるようなものが大好きなんだ。

だから君が生まれてくると知った時、そんなパパの大好きなものを受け継いで欲しいという想いを込めて、名前を付けようと思ったんだ。

真っ先に思い浮かんだのは「是非子(ぜびこ)」とか「イヴ」とか、そういった類のものだったんだけど、さすがにこれは検討に値するとも思えなかったので早々に却下したんだ。

どうも好きなゲームから名前のアイディアを持ってくるのは難しくてね。

それでね。

大好きな映画から名前を考えることにしてみたんだ。



"So if it's just us...it seems like an awful waste of space."

「もし私たちしかいないんだったら…
 スペース(宇宙&空間)がもったいないわ。」



これは、カール・セーガンの原作小説を元にした映画『コンタクト』の主人公、エリー・アロウェイのセリフなんだ。

パパは、この言葉が大好きさ。

だって、可能性に希望を抱くことの大切さ、そして探究することの大切さがこの言葉に込められているからね。

このBLOGのサブタイトルにも引用しているのは、そういう理由があるからなんだ。


そして、もう一つはティム・バートンが児童文学を見事な形で映像化した『ビッグフィッシュ』から。


「人生なんて、まるでお伽噺さ」


ホラふき親父と息子の和解のお話なんだけど、パパはこの素敵なホラふき親父のようになりたいと、本気で思っているんだ。

だって、事実をただ伝えることが必ずしもおもしろいわけじゃないよね?

多少の大げさや誇張を含んでいても、聞いててワクワクする話の方が、きっと楽しいと思うから。

そんなわけで、この大好きな2つの映画から、「技」「理」「伽」の3つの漢字を思いついたんだ。


枝理伽(えりか)。


いい名前でしょ?

「技」は、技術(スキル)を身につけること。
「理」は、ことわり、ものの本質を探究すること。
「伽」は、お伽噺のような想像力を豊かにすること。

これからの時代、与えられる幸せを望むんじゃなくて、自分の力で切り開いていく。

自分で見て、感じて、考えて、そしてそれを想像力を使って楽しく伝える。

天文物理学者のカール・セーガンが『コスモス』や『コンタクト』で描いたような、ワクワクするような表現ができるように。

そんな想いを込めてみたんだ。

えりかという響きは、『コンタクト』の主人公、エリー・アロウェイにも掛けていることは、もうわかるよね?


だけど、一つだけ問題があったんだ。


「伽」という漢字には、お伽噺的な意味とは別に、話相手をすることで退屈を紛らわせるみたいな意味があり、それが暗に夜の寝室で男性の相手をつとめること、みたいな意味も含まれているらしかったんだ。

さすがに君にそんな意味の名前を付けるのは本意ではなかったし、画数としてもあまり良い組み合わせではなかったので、「枝理伽」はやめて「枝理」にしようと思ったんだ。

最後の最後まで迷ったんだけどね。

名前に付けられなくて残念だけど、「伽」の想いについては、パパと一緒に育んでいくことにしようね。



名前を考えるっていうのは、とても大切なことなんだ。

どんな願いを込めるのか。
どんなふうに育ってほしいか。

君が女の子だとわかってから、パパがこの名前に決めるまで3ヶ月近く掛かってしまった。

そして君が生まれてから名前の登録を役所に届けなければならない生後14日の直前まで、ずっと結論が出せなかったんだ。

その間、ずっと君のことだけを考えていた…といえばウソになるかな。


正直言うと、なんとなく男の子が生まれてくるとしか考えていなかったので、女の子だと分かってかなり動揺してしまったんだ。

名前を考えるにあたって、美醜については保証できないので、決して「美」とかいう漢字だけは付けたくない、ってことだけはママに激しく主張していたことを思い出したよ。

ごめんね。

悪気はないんだけど、パパとママの子供ということを考えると、その点は過大な期待をしちゃいけないと思ったんだ。

他にも単に響きから候補を考えたり、キラキラネームっぽいネタを考えてみたり、あれこれ脱線してたら時間が掛かってしまったんだ。



どうだろう?

こんな紆余曲折を経て考えた名前が「枝理」だったんだ。

君が大きくなって名前の由来を尋ねてきたら、このお話をしてあげようね。

ずっと忘れないで欲しいんだ。

パパが一生懸命考えた、この名前を。
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
そして、最終的に君の名前が別のものになったということを。

パパが主張した「枝理」よりも、ママが考えた候補が画数診断でほぼパーフェクトな組み合わせだったため、まったく歯が立たなかったことを。


ずっと忘れないで欲しいんだ。

パパが一生懸命考えた、だけど君には付けられなかったこの名前を…

どうか…お願いだから…


posted by 海鮮丼太郎 at 10:00| 東京 🌁| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記(diary) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月13日

プジョーの社長、セガを語る(5)


ホンダの元上司であった毛塚敏郎氏から声を掛けられ、入交昭一郎氏への尊敬の念からセガへと転身した上野氏のお話。その最終回。



『ホンダ、フォルクスワーゲン プジョーそしてシトロエン
3つの国の企業で働いてわかったこと』 上野 国久


ドリームキャストの値下げの時期と前後して、社長であった入交氏に米デルファイ・オートモティブ・システムズから社外取締役への就任の打診があった。

社内には反対の声もあったが、結果として入交氏はデルファイの社外取締役に就任し、たびたび取締役会に出席するためにアメリカへ行くようになった。

しかし肝心のドリームキャストは値下げ以降も伸び悩みを見せる。
“ドリームキャストの事業計画と実績の差は広がるばかりであった。
1998年11月の発売以降、99年の春、夏そして年末と、それぞれの商戦に向けてあらゆる可能性を追求しつつ販売促進を試みたが結果は振るわず、2000年になると、もはやドリームキャストが失敗であることを認めないわけにはいかなくなった。”
“入交さんは2000年3月の決算が3年連続赤字となった責任を取って社長を降りて副会長となり、かわって大川さんが社長として陣頭指揮を執ることになった。”
入交氏が株主総会の準備を進める中で、自身の退任と役員人事の策定にあたって、上野氏に役員への打診があったそうだ。

上野氏はマーケティング総括としてドリームキャストを取り仕切っていたわけで、結果として事業に失敗した責任を感じていたことから、これに難色を示す。

“「すみません、待ってください」

入交さんは怪訝な顔をした。

「僕はドリームキャストの失敗に責任を感じています。部下たちを昼も夜もなく週末まで働かせて、それでもドリームキャストは失敗して、何人も会社を辞めさせることになって、なのに自分はやくいんになるなどと」

と、私が口ごもると、入交さんには私の返答が意外だったようで、

「なんだ、役員就任が受けられないというのか」
「はい、受けられません」

すると入交さんは怒った口調で

「じゃあ、会社を辞めるんだな」

と言い放った。そのような入交さんに接するのは初めてのことだった。”
いきなりの話で次の仕事もまだ探していなかった上野氏は、すぐにというわけにはいかないと答えてこの場を収める。

ずっと入交氏に忠誠を尽くして働いてきた5年間で、上野氏が入交氏に背いたのはこの一度だけだった、と語っている。


結局この3ヶ月後に上野氏はセガを退職する。

上野氏をセガに招いた毛塚氏も退職し、入交氏自身も同年12月にセガを辞めた。


明けて2001年1月31日、報道にリークされたことを認める形で、大川社長がセガの家庭用ゲーム機市場からの撤退を表明。そしてドリームキャストは失敗に終わった。

全世界に残った200万台にものぼるドリームキャストの在庫は、9900円という投げ売り価格で売られ、セガの家庭用ゲーム機事業はここで完全な終息を迎えた。


その後上野氏はどうしたかというと、セガと取引のあった広告代理店であるADK(アサツーディ・ケイ)に声を掛けてもらったことで渡りに船とばかりにADKへ転職する。
(それ以前にいくつかヘッドハンティングの打診があったものの外資系ばかりだったことからあまり気乗りしなかったとのこと)

ADKでは三菱自動車を担当する部隊に所属したが、当時のADKは三菱自動車との取引を電通に奪われ、その奪還のための活動中で部署だけ残している状態だったため、入ったはいいがやることが無かった。

映画を観たりブラブラしているうちにホンダ、セガ時代の先輩だったという田中慎一氏のPRエージェントであるフライシュマン・ヒラード・ジャパンを訪問。
そこに誘われる形でADK転職から4ヵ月後にフライシュマン・ヒラード・ジャパンにさらに転職し、そこで戦略的コミュニケーションに関わることになる。

それと並行して、セガを辞めた入交氏の個人事務所の秘書として、入交氏のマネジメントを行っていたそうだ。

辞めた後もこうして関係が続いていたというのは、上野氏が入交氏に対する想いが強かったのかが窺い知れるエピソードだ。

そしてフライシュマン・ヒラード・ジャパンからフォルクスワーゲン・グループ・ジャパン、そしてプジョー・ジャポンへと転職していくことになる。

こうしてホンダからのキャリアを見ていくと、セガ時代の5年間は上野氏にとっては明確な失敗を経験した時期とも言える。

組織や人の問題、販売戦略のジャッジミスなど様々な要因が重なっており、セガでの失敗が必ずしも上野氏だけに責任があるわけではない。

それは著書以外にも当時の経済誌などで語られていることからも明白だ。

だからこそ、上野氏はセガ時代を“修行だった”と表現したのだろう。
そりゃ、経歴に書きたくない事情もわからなくはない。


それと、ここでは詳しく触れないが、大川功会長に関するエピソードも非常に興味深い。

結果としてセガはドリームキャスト撤退に伴い800億円の特別損失を出したが、大川功氏が個人資産から850億をセガに提供する形でこの穴埋めをして世を去っている。


以上がセガ時代の上野氏に関するエピソードだ。
同じ時代に別角度から関わっていた者としては、非常に興味深く読ませてもらった。

これだけでもこの本の元を取った気分だ。


セガに関するお話はこれでおしまい。
もう少し補足的に上野氏について書いてみようかと思う。



posted by 海鮮丼太郎 at 16:00| 東京 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 車(Car&Culture) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月11日

今年のルノーカングージャンボリーは5月17日だそうです

KGJ_15_top_2.png
RENAULT KANGOO JAMBOREE 2015 開催!!

カングーが、フランスを乗せてやってくる!
みんなで楽しみ、みんなで創る「ルノー カングージャンボリー2015」を 今年も山中湖交流プラザ・「きらら」で開催いたします!!

ルノーオーナーの皆さんはもちろん
ルノーに乗っていない方も一緒に「クルマで楽しむ」イベントです。
今年もステージイベント、マルシェ、恒例のフリーマーケットなど
楽しいコンテンツを盛りだくさん予定しています。

皆様、遊びに来てくださいね。

昨今のルノー好調の原動力とも言える、メーカー主催のファンミーティングであるところの「ルノー・カングージャンボリー」の今年の開催が決まりました。

昨年は1500台も参加してすごいことになっていたらしいですが、驚くことにこれだけルノー色を出したイベントなのに、その中の400台近くが他メーカーのクルマだったとのこと。

つまり、ルノーのお祭りではあるものの、それを楽しみにしている他メーカーのオーナーがそれだけいたということであります。

何度も繰り返しますが、こういうメーカー主催のイベントはそのメーカーのクルマに乗ることの意味を与えるものであり、ある意味での忠誠心を育むことにもなります。

昨今の自動車ビジネスは単にクルマという商品を売るのではなく、こうした共有体験の提供やそのブランドのクルマを所有することに対する満足感を演出することによって、トータルの顧客満足度を高めることが重要になっています。
(必ずしもイベントを開催することがすべてとは言いません。別の価値を提供する方法もあります。)


好調なブランドとそうでないブランドは、この演出がうまくいっているかいないかという点で分けられると言っても過言ではありません。


商品が似通っているのなら、選択に影響を与えるのはそうした満足度の有無なのかもしれません。
少なくとも当方としては、今ルノーとプジョーに同じような欲しいクルマが存在したら、間違いなくルノーを選びます。
だって、その方がおもしろそうだから。

だからこそ、国内外メーカー問わず顧客との触れあう場を積極的に提供しようという機運が高まっているわけです。


また、こうしたメーカー主催のイベントのメリットとして、顧客の反応をダイレクトにヒアリング出来る点があります。

調査会社にサンプリングを依頼しても、真の姿はなかなか見えません。

しかし能動的にイベントにやってくるお客さんは、将来的な見込み客としてかなり高い確度の情報を持ち合わせていると言えます。
これを利用しない手はないじゃないですか。


そんなわけで、当方としても俄然興味が沸いている状況ですので、都合が付けばぜひカングージャンボリーを覗きに行ってみようと思った次第であります。



[開催概要]
名称: 第7回 ルノー カングージャンボリー2015
場所: 山中湖交流プラザ・「きらら」(山梨県南都留郡山中湖村平野479-2) 
日程: 2015年5月17日(日)
時間: 9:00〜14:00予定
 ※どなたでも参加自由(無料)

 ※イベント内容/スケジュールの詳細情報はルノー・ジャポンホームページ、ルノー・ジャポン公式Facebookで随時お知らせします。




posted by 海鮮丼太郎 at 15:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 催(event) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

プジョーの社長、セガを語る(4)

これの続き。


人のキャリアとはおもしろいもので、現プジョーシトロエンジャポンの社長である上野国久氏が自身のキャリアを振り返りる自伝的な著書の中で、畑違いとも思えるセガでの経歴について語っている。


『ホンダ、フォルクスワーゲン プジョーそしてシトロエン
3つの国の企業で働いてわかったこと』 上野 国久


在籍は1995年〜2000年ということで、セガの歴史において最も重要な時期に、セガサターン、ドリームキャストのマーケティング統括責任者として活動していたとのこと。

あまりに興味深い話のため、プジョーの話そっちのけで上野氏のセガ時代の話を続けてみよう。



プレイステーションに対して劣勢を強いられたセガサターンの教訓を活かして、起死回生を賭けて次世代機の準備が進められていた。

前回は次世代機の名称が飯野賢治の案によって『ドリームキャスト』に決まった経緯について触れた。

セガにとって負けられない戦いとなる『ドリームキャスト』での勝負では、ハード、ソフト、販売戦略(マーケティング)の3要素が完璧に機能しなければならなかった。

しかし結果として『ドリームキャスト』は失敗した。

上野氏はその理由について語っている。
“ドリームキャストの失敗には、マーケティングの複合的な理由がある。
 初期段階で発売時の商品供給不足は大きな躓きであったし、通信機能搭載によるコスト増は事業の採算性を大きく損なった。それいになんといっても、キラーコンテンツ不足は家庭用ゲーム機としては致命的であった。”
上記の3要素すべてがうまく機能しなかったことが、ドリームキャストの失敗の理由としている。

この辺りは日経ビジネス2001年4月9日号の『敗軍の将、兵を語る』で入交昭一郎元社長が同様のことを語っている。


ドリームキャストはGPUに3Dfx社のVooDooを採用する案と、ビデオロジック社のPowerVRを採用する案がほぼ同時並行で進められ、結果的にPowerVRを採用することになったのだが、これにより製品仕様の完成が遅れ、結果的に生産段階に至って計画に狂いが生じてしまう。

PowerVRの製造はNECの九州工場で行われたが、製造における歩留まりの悪さが改善できず、当初からGPUの供給不足の懸念があった。

上野氏の著書では触れられてはいないが、上記の日経ビジネスで入交氏が発売の半年前になってPowerVRチップに不具合があることが発覚し、その改良に時間を要したことが結果的にPowerVRの歩留まりが改善できなかったと述べている。


マーケティング的には大川会長の伝手で秋元康を招聘してあの悪名高き「がんばれ、湯川専務シリーズ」のCM戦略を打ち出し、良くも悪くも発売される年末商戦の話題喚起には成功していた。


ここでじゅうぶんな商品とキラーコンテンツが投入できていれば、ドリームキャストはプレイステーション2と同じぐらいの成功を収められたかもしれない。

しかし、11月27日の発売から年末までに市場に投入できた商品個数は、計画の1/3程度であり、品切れのため販売現場は大混乱になった。

また、ハードの仕様確定が遅れたことにより、キラーコンテンツとなる作品の開発にも大きな支障が出て、軒並み発売延期になってしまったのも大きかった。


サードパーティ製はもとより、自社ブランドのタイトルですらじゅうぶんに用意できず、“買ったはいいがプレイするソフトがない”という状態を生み出してしまった。

こうした状況が、「セガなんてダッセーよなー」という湯川専務の自虐CMをまさしく体現する形になってしまい、セガおよびドリームキャストは一気に失敗の烙印を押される形となってしまったのは皮肉としか言いようがない、というよりあんなCMを作ったことがそもそもの失敗だったと言わざるを得ない。



ドリームキャストの発売から半年程過ぎたころ、上野氏の元にハーバード・ビジネス・スクールの調査員が現れ、ドリームキャストを教材としてまとめたいとの申し出があったそうだ。

セガの歴史などを調べ、社内で聞き取りをして帰って行った後、彼らから「セガ・エンタープライゼスでの深刻な演目(Project Dreamcast: Serious Play at Sega Enterprises Ltd.)」という題名で数十ページにわたるケーススタディ教材のチェック依頼が届いたとのこと。

ハーバード・ビジネス・スクールでは、ドリームキャストの初手での失敗という事例を教材として

「ウエノは発売時期を遅らせるべきであったか?」

「ウエノに他に何か選択肢はあったのか?」

といったビジネススタディの議論が繰り広げられたらしい。

供給不足が目に見えている状況において、発売を延ばしてじゅうぶんな商品を確保するのか?それでも発売に踏み切るのか?それとも何か別の選択肢はあったのか?

ビジネススタディとして非常に興味深いテーマだ。

ドリームキャストほど酷くはなかったが、状況的に似たようなものだったソニーの『プレイステーション2』は敵失もあって成功したが、その後継機である『プレイステーション3』において、ソニーもセガとまったく同じことをやらかしてしまっている。


ゲームという常に話題を先行して提供しなければならない業界において、発売のタイミングは単にビジネスライクな採算性だけでは語れないものがある。

それだけゆえに、ドリームキャストおよびセガの辿った道というのがビジネス界隈でも世界的に興味を惹く対象だったという事なのだろう。



発売から半年後の1999年6月1日に、ドリームキャストは19,800円と一万円値下げされた。
上野氏はこれを“当初の事業戦略通り”と表現している。

ドリームキャストは当初の事業計画においては発売時に3万円、値下げして2万円という戦略で採算が取れるように計画されていたわけだが、モデムを搭載したことによる減価の上昇と、発売時の商品供給不足によるスタートダッシュの失敗が尾をひいて累計販売台数は計画を大きく下回り、この時点で事業の採算性については非常に厳しいものとなっていた。

それでも需要を喚起するための策が必要となる。
開発の遅れでキラーコンテンツが投入できないとなれば、値下げは言わば最後の切り札ということになる。

この決定にもセガ内部での混乱があったようだ。
“値下げ前の5月31日は最悪の夜であった。
六本木のアークヒルズ・クラブで大川会長は、ドリームキャストに賭ける思いを語りながら感情が高まり、突然、値下げはやっぱりいかん、と言い出して荒れた。

「値下げは中止や、いますぐ中止してこい」

と、私を含めてその場にいた面々を怒鳴り続けた。
値下げの発表は、社内はもとより取引先、報道関係者、宣伝広報関係者に伝わっており、すべての手配はとっくに済んでいる。
無論中止などできるわけがないのだが、大川会長は激高して荒れに荒れ、それが鎮まったのは深夜日付が変わってからのことだった。”
大川会長のワンマンぶり、というかドリームキャストに対する想いが強すぎることで、社内に混乱を招き、結果的にドリームキャスト失敗の原因の一端を担ってしまったのは皮肉なことだ。

当時ユーザーの間でも過度にセガに干渉してくる大川功という人物は、自己顕示欲の強い老人という印象を持たれており、大川会長が良かれと思っていたことにも常に反発を覚えるなど、かなりのアレルギー反応があったのも事実だ。

それによってセガとユーザーの間で一体感は生まれず、どこか緊張感の漂う関係性になっていた。


こんな雰囲気のなかで事業展開をしなければならなかった上野氏ならびにトップの入交氏はさぞやりにくかっただろうと思う。

もうちょい続く。

  
posted by 海鮮丼太郎 at 10:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思(criticism) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月10日

あの日。(5)

1995年3月10日

嫌な思い出というのは忘れてしまった方がいい。
ただ、そうは言っても忘れちゃいけないこともある。

その両方のバランスを取りながら、毎年3月10日は自分が生きていることを再確認する日になっていた。

しかし、さすがに年月が経つとそれも途切れがちになり、2011年の3月11日の事があってから、自分の中ですっかりそのことを忘れてしまっていた。

で、久しぶりに思い出した。

今日で、あの日からちょうど20年経ったことを。


当BLOGはなんだかんだで(旧サイトを含めて)11年目に突入したが、初期のエントリーでこんなことを書いていた。



5年前の3月10日に15周年だということを書いてからその後が途絶えていたが、いい記念なのでその続きを書いてみることにする。


リハビリで約1時間ほど歩行練習をする以外は、入院中の日常というのは変化の無い、あまり楽しいものとは言えなかった。

そこでやっていたのが、病院の窓から目の前の幹線道路を走るクルマの車種当てごっこだった。

自動車の事故に遭いながら、クルマへの興味は失われておらず、むしろ退院したらクルマが欲しいな、などと思うようになっており、差し入れで自動車雑誌を持ってきてもらっては新車のチェックに余念がなかった。

この車種当てごっこはクルマの知識を身につけるには非常に役に立った。

当時はそれほどメーカーや車種に詳しかったわけではないのだが、猛烈なヒマを持て余していたため日を追うごとに的中率はアップしていった。

最初はトヨタ車とホンダ車だけ当てられたのが、一週間後には乗用車の大半は瞬時に見分けがつくようになり、それが軽自動車まで広がり、挙句に商用車までだいたい見分けがつくようになっていた。

こうしたことで各メーカーの車種のデザインの違いや走り方、載ってるドライバーのタイプまで、その後のクルマに対する基礎教養をここで身に付けたとも言える。

そんな感じで8月を過ぎた頃、あとは自宅療養でもいいだろう、ということで退院することになった。
3月10日の事故から約半年、ようやく自宅へ帰ることができると聞いて、素直にうれしかった。

事故によって右足の痺れは残ったままで、松葉杖を突いての退院となったが、まず最初にやったのは自分で歩いて買い物に行くことだった。

とは言っても電車を使って自由に動けるほどではなかったため、友人の軽自動車に乗せてもらって秋葉原に行っては買い物をしまくるという、今までの鬱憤を晴らすような消費行動に走った。

1995年というのはいろんなことがあった年だが、秋にWindows95の発売を控えており、それに向けて自作PCをどのようなパーツで組み立てるかという自作ブームが非常に熱い時期だったこともあり、イテテテとかいいながら秋葉原の雑居ビルの階段を上り下りしてパーツを探し歩いたのがとても楽しかったという記憶がある。

その後1ヶ月ほど自宅療養をしてから職場に復帰したが、その時は営業所が多摩センターから新横浜に変わっていた。

片道2時間半から片道1時間ちょっとに短縮され、いろんな意味で救われた気がした。

会社からは一応労災に相当する(=労災ではない)という変な扱いで、なんだか給料を減らされたりとか微妙に納得のいかない扱いにはなったが、とりあえずクビにならずに仕事に復帰できたことは単純にうれしかった。

結局入院から会社復帰まで半年を要し、その頃には世の中Windows95発売を前に大忙しの状況だった。

事故の状況を20年後の今になって振り返ると割と背筋が寒くなるのだが、当時は若かったこと、そして世の中が面白かったこともあって、とにかく動けるようになって遊びに行きたい一心だった。


結局足の痺れは20年経った今でも残ってはいるものの、一通りの運動をするのに支障が出るほどではない。

お腹には緊急開腹手術で切り開いた傷痕が長くクッキリ残っている。

肝心の生殖機能については、退院後に精液検査をやったところ問題はない、ということだったのでこれには一安心したのだった。

この時、「将来的に切れた尿道の傷跡の影響が出るかもしれない」とは言われたものの、あまり真剣に考えていなかったのだが、まさかそのずっと後に生殖機能の問題で不妊治療に挑む羽目になるとは思ってもみなかった。(不妊治療との因果関係は不明)


一通り社会復帰をしたとはいっても、入院中のさまざまな費用や通院の自己負担など経済的には大きな打撃があった。

事故を起こした相手は裁判によって実刑判決を受けて服役したらしいが、入院時に一度だけ見舞いに来た後はまったく顔を合わせていない。

相手の保険会社が誠意を持って対応するといって提示ししてきた金額を親父に見せたところ、あまりにふざけてるということで弁護士に立ってもらって正式な裁判をすることになった。
裁判についてはすべて弁護士にお任せして、こちらはその結果だけを待つことになった。

示談金は結局提示の3倍近くになったものの、将来的な不安も完全に解消されたわけではなく、両親の心労や見舞いに費やした時間や移動のリソースを考えると、とても割のいい額ではなかった。


保険に入っていようがなんだろうが、結局のところ事故に遭って得することなんて一つもない。

だからこそ、被害者にも、そして加害者側にもなってはいけないと、強く思う次第であります。



さて、今年はいろんな転機になった年だし、あまり過去を振り返っても仕方が無いので、この話はぼちぼちこれでおしまいにしますかね。
自分の中でもある程度踏ん切りもついたので。



…人生において2回は死にそうな目に遭うという話がありますが、この時1回、おととしの白血病で2回ということで、もうこれ以上ないと考えてよろしいですかね?


posted by 海鮮丼太郎 at 13:00| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 思(criticism) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月09日

プジョーの社長、セガを語る(3)

プジョーの話題そっちのけでまだまだつづくこのシリーズ。
それだけ当方にとってはインパクトのある話だったので、しばらくお付き合い願いたい。


現プジョーシトロエンジャポンの社長である上野国久氏が、自身のキャリアを振り返りる自伝的な著書を出した。

『ホンダ、フォルクスワーゲン プジョーそしてシトロエン
 3つの国の企業で働いてわかったこと』 上野 国久


発売当初はプレイステーションと互角の戦いを演じながら、キラーコンテンツとなるタイトルの充実が図れず次第に劣勢になっていったセガサターン。

その劣勢を挽回すべく、セガが背水の陣を敷いて勝負に挑むべく開発されていたのがドリームキャストだ。

ドリームキャストとそれによってセガが辿った歴史は、日本のゲーム市場においては忘れてはならないエピソードを多く残している。

ゲームマニアの目線、そしてビジネスからの目線で多くの論考がなされてきたが、ちょうどインターネット普及前ということもあり、その手の話題をネット上で見つけるのは意外と難しかったりする。

当時の話題を口にする人も減り、真偽も定かでない情報がネット上に散見される程度になっていたが、まさに当事者としてセガの中心にいた上野氏が当時の事を語っているのはゲームハードの歴史を検証するうえでも重要なソースとなりえる話だ。

上野氏が元マクドナルドの原田泳幸氏のように、アップル時代の他人の功績を自分のもののように騙ったりしてなければ、という前提が条件だが。



上野氏が後のドリームキャストとなる次世代機の事業戦略とブランド戦略を昼夜問わず働き詰めで作成していた頃の話だ。

ここで飯野賢治との妙なエピソードが語れている。

“商標開発はブランド・コンサルティング会社のインターブランド社に委託して勧めていたが、肝心の名称についてこれといった案がなかなか出ずにさてどうしたものかと思案していたところ、飯野さんが興奮した面持ちで現れて「ずいぶん考えましたよ」と言いながら『ドリームキャスト』の名称を提案してくれた。
“飯野さんに依頼したわけではなかったのだが、次世代機の名称はまだ決まっていないと私が言ったので、「考えずにいられなくなって」と飯野さんはその巨体を揺らしながら、セガの次世代機について考えたことを、彼の特徴でもあった熱っぽくやや早い口調で語った。

この飯野さんの提案は大変良かったのだけれども、飯野さんが名付けたということになってしまうと、飯野さんの色がついてしまう。飯野さんはその独特な風貌と個性的な言動がメディアで取り上げられて人気者であったが、セガの次世代機はすべてのゲームクリエイターの為のプラットフォームとして世に出さなければならなかった。
(改行調整と強調表示は筆者)

上野氏が誰にも口外しないで欲しいと頼むと、飯野氏は「ええ、わかってますから」と笑いながら快諾してくれたとのことだ。

通説、というか永田泰大著『ゲームの話をしよう』の中では「候補を募り、絞っていったものであり、特定の命名者はいない」ことになっているそうな。

しかし実は、飯野賢治のアイディアであったわけだ。

確かに、飯野賢治は味方も多いが敵も多い人物であり、もし飯野賢治の命名ということが知れ渡るとそれだけで敬遠するゲーム会社やクリエイターがいたことは事実だろう。

だからこそ口外しないように依頼した判断は正しかったと思うし、飯野賢治自身もそのことはよく理解していたからこそ、口外しないことを約束したんだと思う。

“飯野さんと守秘義務契約を交わして、その対価を支払ったけれども、金額はいかほどであったか、忘れてしまった。

忘れた、ということはないだろう。

それなりの金額は払っているだろうが、しかしそれを当事者がもう亡くなっている状況でほじくり返すのも意味がないし、あまり深く詮索するのはやめておこう。


その後、飯野賢治のアイディアである『ドリームキャスト』という名称案を元にインターブランド社と商標デザインを開発し、セガの最高経営会議で報告すると、大川功会長が「ええなぁ、ええよ」と褒められ承認されたのだそうだ。


大川会長はこのロゴを大いに気に入って、愛飲していたナパバレーのワイン「ロバート・モンタヴィ」と「ベリンジャー」を大量に発注して、ボトルにドリームキャストのロゴを彫り入れて何かにつけてふるまったり、赤坂の和菓子屋でドリームキャストのロゴを焼きつけしたどら焼きを贈答品にしたりもしたそうだ。

この辺りの逸話は、ゲーム業界周辺にいた人には心当たりがあったりするだろう。

当時CSKグループだったアスキーは、「全社員がドリームキャストの販促をせよ」という号令のもと、裏にドリキャスのオレンジ色の渦巻きマークが描かれた名刺を持たされたものだ。


まさに背水の陣、崖っぷちからの起死回生を狙って、ドリームキャストを世に放つ準備が着々と整えられていった。


posted by 海鮮丼太郎 at 10:00| 東京 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 思(criticism) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする